「自らを灯明と化した菩薩たちの願い」No.5~チベット問題・焼身抗議を考える~

【チベット問題】

「自らを灯明と化した菩薩たちの願い」No.5(2012年2月15日)
~チベット問題・焼身抗議を考える~ 川口英俊

No.1(http://t.co/Y0nu4h2A
No.2(http://t.co/10iJy98V
No.3(http://t.co/ZjIlEK9z
No.4(http://t.co/t1y3cDLF

今回は、焼身抗議をなされたトゥルク・ソバ・リンポチェ師のご遺言全文日本語訳の内容から考えて参りたいと存じます。

『・・己の身と命を投げ打ち(これまでの全ての有情の悪業の)許しを請うのである。全ての有情は父、母でなかったものはいない。計り知れぬ有情が野蛮人の ように法に反する力に屈し、不善なる大きな業を為しつつある。心から彼ら(中国)の悪業を浄化したい。また、ノミやシラミに至まで、呼吸する全ての、この 天空に満ちる有情全てが、死の苦しみを逃れ阿弥陀如来の下に生まれ、全智至上の完全な仏の位を得るために、己の命を供養物として捧げる次第である。』・・ 本文より

ここにおいて、まずトゥルク・ソバ・リンポチェ師は、全ての有情は、幾前世かにおいて、かつての自身の父、母であったのかもしれないというチベット仏教の 慈悲心・菩提心を起こすための基本的な考え方を述べられており、まさに、本来であれば怒り・憎しむべきであろう、チベット人たちを陵辱して危害を加えてく る敵とも言える存在である弾圧・圧政を行う中国当局の人々に対してさえも、大いに慈悲の心を起こして、彼らの悪業による輪廻の迷い苦しみを取り除いてあげ たい、悪業の原因である煩悩・無明を浄化させてあげたいと述べられ、更には彼らだけのみならず、ノミやシラミや小さな生き物たちも含めて、あらゆる一切有 情を悟りの世界へといざなわんがために、己の命を御供養するとの大いなる慈悲による菩提心の決意が述べられています。もちろん一切有情に例外はありませ ん。それは生きとし生ける者たち全てであり、私も皆さんも当然にその中に含まれているわけであります。

上記のことは、先のNo.3の考察にて確認させて頂きましたダライ・ラマ14世法王猊下のお考えである、「自殺は仏教徒にとってももちろん悪しきこととし て、当然に極力避けないといけませんが、極めて限定された極限状態の中で、例外的に否定されない場合としてある他者に悪しきカルマを積ませないためという 利他・慈悲の行為としてのこと」に適うものであると畏れ多くも推察致しております。

この度のトゥルク・ソバ・リンポチェ師の御供養は、一切有情たち全てへと向けられており、その中には、この浅学菲才の未熟者なる愚拙も含まれ、このブログ を読んでおられる皆様ももちろんで、実に有り難く、誠に尊いことであります。このように、皆、トゥルク・ソバ・リンポチェ師の御供養においての関わりがあ り、この御供養と関係のない有情などいないのであります。

ゆえにも、私たちは、この度におけるチベットの問題についても決して無関心であってはいけないと強く思っております。一人一人が何らかの形でトゥルク・ソバ・リンポチェ師の御供養にお応えしていくことが望まれると考えております。

それは、本御供養により、一番には、仏教への帰依に繋がり、出離心、慈悲心、菩提心の滋養へとなれば最善なることでありますでしょうが、そうではなくて も、チベットの現状を憂いてできること、例えば、チベット情勢の改善を願い、祈りを捧げること、これまでの全ての犠牲者たちを追悼すること、チベット関連 の支援団体へ何らかの協力・援助をすること、活動・イベントなどに参加すること、抗議活動に参加すること、ツイッターやブログ、フェイスブックでチベット 問題を取り上げたりすることなどでも良いでしょう。

何らかの形にてほんの少しでもトゥルク・ソバ・リンポチェ師のお志にお応えすることが非常に大切であると強く感じております。

深遠なる大いなる慈悲の御心にて、一切有情に御供養なされたトゥルク・ソバ・リンポチェ師に最敬礼申し上げます。どうか再び人間界に御転生なされまして、輪廻の迷い苦しみにある一切衆生を到涅槃へとお導き賜れますように心からお願いを申し上げさせて頂きます。

釈尊涅槃会のこの日に記す。川口英俊合掌九拝。

・・次回、No.6へと続く・・

・・

「焼身抗議 トゥルク・ソバ・リンポチェ師のご遺言全文日本語訳」
ケンポ・ンガワン・ドルジェ師・原文訳
中原一博氏・日本語訳

内外の全てのチベット人同胞600万人へ。チベット人の幸福と、内外に引き裂かれた600万のチベット人が再び相まみえるために、その身を犠牲にした勇 者トゥプテン・ンゴドゥップ氏を初めとする内外の勇者・勇女全てに感謝の意を表明する。私はすでに40歳を越えたが、これまで彼らのような勇気を奮い立た せることもなく過ごして来た。もっぱらチベットの伝統的文化と宗教を周りの人々にできるだけ伝える事に努力し続けて来た。

21世紀に入った現在、今年(チベット暦ではまだ2011年)は命を捧げた勇者・勇女が沢山いた年だった。そこで私は彼らの血肉を象徴するために、己の 誉れのためではなく、心から三戒(別解脱戒、菩薩戒、密教戒)と特に密教戒の主戒である己の身と命を投げ打ち(これまでの全ての有情の悪業の)許しを請う のである。全ての有情は父、母でなかったものはいない。計り知れぬ有情が野蛮人のように法に反する力に屈し、不善なる大きな業を為しつつある。心から彼ら (中国)の悪業を浄化したい。また、ノミやシラミに至まで、呼吸する全ての、この天空に満ちる有情全てが、死の苦しみを逃れ阿弥陀如来の下に生まれ、全智 至上の完全な仏の位を得るために、己の命を供養物として捧げる次第である。

そして、至上の人の姿をした仏神であるダライ・ラマ法王を始めとするラマやトゥルク全てが永遠の命を保たれるよう、私の身と命をマンダラと化し捧げる。

<大地に香水を撒き散華し、須弥山、四大陸、太陽と月により荘厳し、これを仏の浄土と見なし捧げ奉るが故に、全ての有情が清浄なる浄土を享受できますよう に。自他の身口意と三世の功徳の集積と、宝の如しマンダラを普賢菩薩供養と共に、心に生起しラマと三宝に捧げ奉る。慈悲の心でお受け取りになり我に加持を 与えたまえ。オーム・イダムグル・ラトナマンダラカム・ニルヤタヤミ>

この行為は自分1人のためになすのではなく、名誉のためになすのでもない、清浄なる思いにより、今生最大の勇気を持って、(ブッダのように、子トラたち を救うために飢えた)雌トラに身を捧げるようになすのだ。私のようにチベットの勇者・勇女たちもこのような思いで命を投げ出したに違いない。しかし彼らは 実行の際、怒りの感情と共に死んだ者もいるかもしれない。そうであれば彼らが解放の道を辿れるかどうかは怪しい。故に、様々な悟りへの道を思い出させてく れる船頭のような導師と、このような供養を捧げる善行の力に依って、将来、彼らを含めた全ての有情が全智至上の仏の位に到ることを祈願しながら行うのだ。 また、内外のラマ、トゥルク全ての長寿と就中ダライ・ラマ法王をポタラの玉座にお迎えして、チベットの政教を司ることができますようにと祈願する。

<雪山に囲まれしこの聖域の、全ての福利の源である、観音菩薩であられるテンジン・ギャンツォよ、濁世が終わるまで存命されますように。その加持の力が天空の如く行き渡らんことを。
間違った思いにより祖国に対し、危害を及ぼす黒い形を持つもの、持たないもの、思いと行動が邪悪な侵入者が、三宝の真理の力により根こそぎにされますように>

[かくの如し善なる…の二偈と、祈願の王と呼ばれる…等の一偈と、これと三世…等の一偈。タドヤタ、パンチャタライヤ(三宝)に三度礼拝する]

ここで、金剛同士たち、各地におられる信者たちに願う。みんな一致団結し手を取り合い、チベット人たちが将来輝きに満ちた一つの国家を取り戻すために奮 闘せよ。これが命を捧げた勇者・勇女たちの願いだ。故に、土地や水等のことで争ったりせず、思いを一つにすべきだ。若者たちはチベットの文化を尊重し学 び、年輩の者たちは自らの身口意を善なるものとし、チベット人の慣習と気質、言語等が衰退しないようにチベット人としてのアイデンティティーを保持し続け ねばならない。同時に、チベット人の幸福と、全ての有情が解放と全智の位を得るために清浄なる仏法を行ずることが重要である。タシデレ(吉祥なる幸運 を)。

そして、家族、同郷の人たち、友人たち、特に**[1人の名前を言うが聞き取れず]等みんなに伝えておく。私には隠してある財産など何もない。あるもの はすべて以前より三宝に捧げ切っている。死後、大金が見つかったとか、ああだった、こうだったとか財産のことで噂する必要はない。兄弟姉妹、親戚、友人、 各地の檀家たちもこのことを心得ておいてほしい。

他、私が担保した財産や物品等は檀家たちが、地域の人たちやラマ、トゥルクたちによろしく分け与えてほしい。

それでは、自他の三世に渡り積んだ功徳の全てを母なる全ての有情、特に地獄等で苦しみを味わいつつあるものたちが解放を得られますようにと、以下の如く祈願する。
[祈願の王…など一偈。今生と三世の…など一偈を唱える]

最後に、内外の法友男女すべてに言いたい。悲しまないでほしい。ラマである善友に対し一心に祈るのだ。菩提を得るまで一瞬たりと離れることはない。老人 たち、全ての人々よ、楽な時も苦しい時も、良い時も悪い時も、喜しい時も悲しい時も、如何なる時にも三宝以外に望みを託す対象はない。これを忘れないよう に。タシデレ。

・・ここまで。

中原氏註・・なお、原文は格調高く、私には少々難解な箇所もあった。意訳したところもあることをお断りする。これはあくまでも試訳である。
文中( )内は訳者の補足、[ ]内は書き起こされたケンポの省略説明と補足。

・・

中原一博氏( @tonbani )のブログにおきまして、1月8日にゴロ・ダルラにて焼身抗議をなされて、その場で死亡されたトゥルク(転生活仏)ソバ・リンポチェ師のご遺言の全文日本 語訳が発表されましたことを受け、その全文の内容には、中原氏も述べられておられるように、まさに自らを灯明と化した菩薩たちの願いの全てがそこにあると 私も思いますので、その全文の内容につきまして考えて参りたいと存じます。

「トゥルク・ソバ・リンポチェ師のご遺言テープ」
http://www.youtube.com/watch?v=AfHO5EVbDkA&feature=player_embedded#!

「1月8日、ゴロ、ダルラにて焼身抗議、その場で死亡したトゥルク・ソバ師のご遺言全文日本語訳」

チベット語原文・・ケンポ・ンガワン・ドルジェ師訳
日本語訳・・中原一博氏

チベット語原文 http://www.khabdha.org/?p=24588
中国語訳 http://woeser.middle-way.net/2012/01/blog-post_28.html

参照

「1月8日焼身死亡、ソバ・リンポチェの遺言 全訳」 – チベットNOW@ルンタ
http://t.co/shMo0jRY

チベットNOW@ルンタ・ダラムサラ通信
http://blog.livedoor.jp/rftibet/

・・

「自らを灯明と化した菩薩たちの願い」No.3(2012年2月13日)
~チベット問題・焼身抗議を考える~ 川口英俊

No.1(http://t.co/Y0nu4h2A
No.2(http://t.co/10iJy98V

今回は、まずダライ・ラマ14世法王猊下の「自殺」に関してのお考えについて考えて参りたいと存じます。

最も端的に猊下がそのお考えを述べられていると思われるのは、

『ダライ・ラマ「死の謎」を説く』(2008年・角川文庫)
第一章・「死」とは何か・3自殺と殺人・p39-51

であるかと存じます。

これまで猊下関連の著書は数多く読了させて頂いておりますが、他の関連箇所の詳細を探索するには改めて全て再読・検証致さねばならないため、ここではあま りに時間が掛かりすぎてしまうので省略させて頂きますが、読者の皆様には、また色々と誤りがございましたらご指摘を頂けましたらと考えております。

まず、普通の一般的な自殺について、猊下は、悪い感情(怒りや憎しみ)が良き感情(慈悲心や愛情)に打ち克ってしまい、悪い感情が心の中を支配して、更には、死への恐怖さえも凌駕し、感情の暴発によって自ら命を絶つのだとご説明されておられます。

次に、真の意味で自殺は完遂しないことを述べられています。これは、あくまでも自殺の行為としての不成立についてのことで、もちろん、(己自身を殺すとい う)動機までも否定はされておられません。ここで、「あなた自身が死ななければ自殺が完成しない以上、あなた自身が己を殺すという行為を完遂させることは 不可能である」と述べられておられますが、どこか中観思想的な考えを連想させる内容ではないかと考えております。「去る者は去らない」的なところでありま すが、論点が空論にずれていく恐れが強いため、ここではあまり深くは踏み込まないことと致します。

そして次に、「ある特定の、ひじょうに限定された状況において、自殺は許される行為となりうることを言っておかねばならない」として、極限状態における自殺で許される場合があることについて述べられておられます。

ここで一人のラマ僧の瞑想による自殺のことを、自殺の認められる例として挙げられています。その認められる理由は、「他者に悪しきカルマをもたらすことを 避けるため」ということで、それは通常であれば、自らを陵辱する怒り憎むべき敵である者たちにさえも慈悲心を起こして、その者たちに、自身が生き長らえる 中において、これ以上にその者たちに悪いカルマを積まさせてはいけないとして、自らで瞑想死を選んだ例であります。

普通の人間、凡夫であれば、自らを誹謗中傷し、暴力・拷問して危害を及ぼして来る者に対して、そのように慈悲心を起こすことは到底考えられないことであり ますが、高い悟りの境地に至っている聖者においては可能なこととなります。それは、むしろ忍辱・忍耐行をさせて頂けるための存在として、有り難い存在であ り、当然に慈悲心を起こすべき存在であると考えるわけであります。この理解はなかなかできないのが凡夫であると言えるでしょう。

自殺の手段に関しては、瞑想であろうが、道具・毒薬を使おうが、真言(マントラ)の力に頼ろうが、手段の違いで自己の死という結果は変わりないと説明されています。

そして、改めて、まず自殺は仏教徒にとっても悪しきこととして、当然に極力避けないといけないと前置きされた上で、ある極めて限定された極限状態の中で、 例外的に否定されない場合があるということを述べられ、章の最後においては「殺人」について、その許容される唯一の場合として、お釈迦様が語られたことを 例として挙げられておられます。

それは、「599人の生命を救うため、一人を殺すような場合として、599人が殺されることを防げるなら、その命を救うため、599人を殺す者が積む悪しきカルマを避けるため、一人を殺すことが絶対に悪だとは言い切れない」ということを述べられておられます。

以上で、『ダライ・ラマ「死の謎」を説く』・第一章・「死」とは何か・3自殺と殺人・p39-51における猊下のお考えを概観させて頂きました。ここにお いて、自殺・殺人が認められる場合の要点を確認することができますが、それは、「他者に悪しきカルマを積ませないため」という利他・慈悲の行為として、極 めて限定された極限状態の中で、例外的に否定されない場合があるということであります。

このことは、この度の焼身抗議について考える際における最も重要な視座であるのではないだろうかと存じております。

・・次号・No.4へと続く・・

広告
カテゴリー: Uncategorized パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中